沢木耕太郎という旅の作家について
『深夜特急』を読んだことがある人なら分かると思う。沢木耕太郎の文章には、ただ「旅の出来事」を記録するだけでは終わらない何かがある。風景の匂い、宿の薄い壁の向こうから聞こえる物音、自分自身の心の揺れ。それらが文字を通して、まるで自分の体験のように染み込んでくる。
『深夜特急』で香港からロンドンまでの陸路バス旅に憧れ、『一瞬の夏』でボクサー・カシアス内藤の生き様に胸を打たれてきた。沢木耕太郎の作品はどれも、ノンフィクションというジャンルの枠を超えて、読む者の人生観そのものに静かに介入してくる。
そんな沢木作品の中で、今回どうしても語りたくなったのが『天路の旅人』だ。これまで読んできたどの沢木作品とも違う、異彩を放つ一冊だった。
『天路の旅人』とはどんな作品か
この本の主人公は、沢木耕太郎自身ではない。西川一三という、実在した一人の日本人だ。
第二次世界大戦末期、西川は「密偵」として、敵国である中国大陸の奥深くへ潜入する。二十五歳のとき、当時ラマ教と呼ばれていたチベット仏教の蒙古人巡礼僧になりすまし、日本の勢力圏だった内蒙古を出発し、中華民国政府が支配する寧夏省を突破して、広大な青海省へ足を踏み入れ、中国大陸の奥深くまで潜入した。
驚くのはここからだ。第二次大戦が終結した1945年以降も、蒙古人のラマ僧になりすましたまま旅を続け、チベットからインド亜大陸にまで足を延ばす。そして1950年にインドで逮捕され日本に送還されるまで、実に足掛け八年に及ぶ長い年月を、蒙古人「ロブサン・サンボー」として生きつづけた。
戦争はすでに終わっている。帰る場所も、帰る理由もあったはずだ。それでも西川は旅を続けた。この本を読む前の自分には、その感覚がまったく理解できなかった。読み終えた今は、なんとなく分かる気がしている。
そしてもう一つ、この作品自体の背景にも圧倒される。沢木耕太郎は西川本人に直接会い、長期にわたる取材を重ねた上でこの本を書き上げている。一度きりの取材ではない。膝を突き合わせ、何度も何度も話を聞き、西川自身が書き残した膨大な記録と照らし合わせながら、一人の人生をすくい上げるようにして書かれた一冊なのだ。一人の旅人の人生を、もう一人の旅人が長い時間をかけて文章に変換する。その構造自体が、すでに一つの旅のように思えてくる。
読んでいる間、僕は西川一三になっていた
『天路の旅人』を読み進めていくうちに、不思議な現象が起きた。本を読んでいるはずなのに、いつの間にか自分が西川になっている感覚があったのだ。
凍えるような寒さの峠道。何日も人と会わない荒野。匪賊に襲われるかもしれない緊張。喉の渇き、足の痛み、明日の食料が確保できているかどうかの不安。沢木耕太郎の筆致は、これらを「他人の体験」として説明するのではなく、読者の体感そのものに変換してくる。
ページをめくる手が止まらなかった。けれど、それは単純に「面白くてやめられない」というエンタメ的な感覚とは少し違う。むしろ、自分自身がその荒野を一歩一歩進んでいるような、ある種の身体的な疲労感を伴う読書体験だった。
そして読み終えたとき、僕の中にあったのは、爽快な達成感というよりも、長い旅を終えたあとのような、深い疲労感だった。それは決して悪い意味ではない。むしろ、これこそがこの本の凄さなのだと思う。「いい意味で疲れる本」というのは、そう多くは出会えない。
旅の神髄を見せられた
この本を読んで、僕は「旅」という行為そのものについて、改めて考えさせられた。
普段僕らが「旅」と呼んでいるものは、ガイドブックがあり、交通手段が確保され、宿が予約されていて、目的地までの道筋がほとんど見えている。リスクは限定され、ロマンも程よく管理されている。それはそれで楽しいし、否定するつもりはまったくない。
しかし西川一三の旅には、そうした「保証」が一切ない。地図もなければ、頼れる組織もない。明日生きているかどうかさえ分からない状況の中で、それでも彼は歩みを止めなかった。むしろ、知らない場所、行ったことのない場所への興味が、彼を前へ前へと押し出していたように見える。
この本を読んで強く感じたのは、「旅に本当に必要なものは、実はそう多くない」ということだ。装備でもなければ、お金でもない。突き詰めれば、未知への純粋な好奇心と、それでも一歩を踏み出す意志。それだけが、旅の核にあるものなのかもしれない。今の時代、旅というとどうしても「効率」や「コスパ」、SNSに上げるための「映え」といった言葉が先に浮かんでしまう。でも本来、旅のロマンとはもっとシンプルで、もっと根源的なものだったのではないか。西川一三の旅は、そのことを僕に思い出させてくれた。
なぜこの作品が「異彩を放つ」のか
『深夜特急』も『一瞬の夏』も、沢木耕太郎自身が主体となって動き、感じ、考える物語だった。読者は沢木という人物の視点を通して世界を見る。
ところが『天路の旅人』では、沢木は西川という人物の人生を、外側から、しかし限りなく内側に寄り添う形で描いている。自分の旅を語るのではなく、他者の旅を、まるで自分自身の旅であるかのように再構築する。これは並大抵の筆力では成立しない仕事だ。
しかもこの作品は、沢木耕太郎自身にとっても特別な意味を持つ一冊だったようだ。長い構想と取材の期間を経て、ようやく形になった、著者自身の旅でもあったのだと思う。一人の旅人の人生を、もう一人の旅人が何十年もかけて書き継ぐ。その営み自体に、僕は静かな感動を覚えた。
これまでの沢木作品とは異なるアプローチでありながら、根底に流れている「人間の生き方そのものへの好奇心」は変わらない。むしろ、その好奇心が最も純粋な形で結晶化したのが、この『天路の旅人』なのではないかと思う。
読後、変わったもの
正直に言うと、この本を読み終えてから、自分の中の「旅」という言葉の重みが変わった気がする。
次に旅に出るとき、きっと荷物はそんなに重くならないと思う。完璧な計画も、すべてを管理しようとする欲も、少し手放せる気がする。代わりに、行き先で何が起きるか分からないという、その不確かさそのものを楽しむ余白を、少しでも持っていたい。
『天路の旅人』は、単なる戦争秘話でも、単なる紀行文でもない。一人の人間が、何のために、何を求めて、果てしない道を歩き続けたのか。その問いに、性急な答えを出さないまま、ただひたすら誠実に向き合った作品だ。
沢木耕太郎の凄さを、また一つ思い知らされた。そして、この本に出会えたことに、心から感謝している。これから読む人には、ぜひ時間をかけて、西川一三と一緒に、あの果てしない道を歩いてみてほしい。読み終えたあとの心地よい疲労感まで含めて、この本の価値なのだから。


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